福岡東部子ども劇場

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福島ってどんなところ?

2015年3月13日(金)『空の村号』劇団仲間 にむけて



劇の舞台となる福島の飯館村。さて、福島はどんなところなのでしょう?

面積は北海道、岩手県に次ぐ第3位。都道府県別の人口は18位。人口密度は第39位。
猪苗代湖や磐梯山などの自然美、喜多方市のご当地ラーメンの喜多方ラーメンなどが有名。また、果物の生産は「くだもの王国」とよばれるほど盛ん。旧幕府軍側として新政府軍と戦った会津藩や白虎隊の戦歴は多くの人の心に残っており、ドラマとしても度々放映されている。


◆福島の歴史
 
 
 福島は古代から東北地方の入り口としての役割を持ち、奈良時代には蝦夷対策として県南部の白河関・沿岸部のいわきには勿来関が置かれた。平安時代になり征夷大将軍坂上田村麻呂によって東北地方が平定されると関所としての機能はなくなる。関西の人にとっては、遠く離れた東北はあこがれの地でもあり、元禄年間には松尾芭蕉も「奥の細道」の旅の途中に白河関を通ったとされる。

 会津も又奥羽勢力に対する抑えの地。豊臣秀吉は伊達政宗から会津を没収し、家臣の蒲生氏郷を置いて東北地方の要とした。伊達→蒲生→上杉→蒲生→加藤の変遷をへて、1643年に保科正之が藩主となり幕末の松平容保まで続く。
 保科正之は「家訓十五ヶ条」を作りその第一条件には「会津藩の使命は将軍を守ることである。藩主がこの家訓に反したときには、家臣は主君といえども従ってはならない」と記し武士道の精神が受け継がれていく。幕末の松平容保もこの家訓を守り、京都守護職になる。会津藩は人材育成と教育の水準は高く、上級藩士の子弟は10才を迎えると藩校・旧新館で文武両道の教えを授けた。又「什の掟」という7ヶ条の人材育成の指針があった。
 戊辰戦争で、会津藩は新政府軍と戦い、会津若松城が落城するまで激戦の地となる。武家屋敷の火災を落城と取り違えて自刃した白虎隊の悲劇も起きた。

 1876年に若松県、福島県、磐前県の3県が合併し、福島県が誕生する。1873年から不毛の原野であった郡山西部に猪苗代湖の湖水を利用する開生山一帯の開拓工事が始まり、1882年安積疎水という水路が完成。
 自由民権運動において、東北の指導者として三春町出身の河野広中が知られている。1879年に全国初の県会を設置し、県議会議長となる。1882年自由党撲滅を豪語する県令・三島通庸は河野らを弾圧。住民負担の道路建設を強行し住民と対立。この時河野らも逮捕され運動は壊滅的な打撃を受ける。

 資本主義の発展とともに工場労働者が増加。福島でも製糸工場や炭鉱・鉄道の労働者は労働条件の改善を求めて争議を行い労働運動の先駆けとなる。
 高度経済成長期に入り、いわき・郡山地区が新産業都市に指定され多くの企業が進出。それと同時に大気汚染や河川の汚染などの社会問題も発生した。また、国のエネルギー政策の転換により、石炭産業は衰退。その後浜通り地方には火力発電所・原子力発電所が設置され、電力供給地帯となった。県内に水力発電所90ケ所。1996年常磐炭鉱閉山後の新しい職場として、温泉を利用してつくられたスパリゾートハワイアンズが開業。
 


◆劇作家・篠原久美子さんより
  この作品へのメッセージを書くことは、私にとってもとても難しいことです。「見て下さい」と静かに言い、胸をいっぱいにすることしかできない気がしています。それでも何かと言われたら、やはり2011年の初夏に戻らなければなりません。原発からおよそ40キロ離れたその村は、それは美しい村でした。山に野生の藤の花が咲く季節。でも、農村であるその村の畑には雑草がはびこり、田んぼは干からび、牛舎には牛が一頭もいませんでした。新緑の眩しい季節に蛙の声がない、鳥がいない、子どもがいない村でした。村の人たちのお話を伺って帰る新幹線の中で、私はまるで体のどこかの機能が壊れてしまったかのように涙が止まらなくなりました。都会の街を移動しながら、あの美しい村の苦悩と涙を作り出している街の明るさに、胸が締め付けられるようなやるせなさを感じた、あの痛み。それを忘れることを拒否しようと思いました。時がたてば自然を忘れることを促しますが、そうしたらまた思い出そうと思います。
 
at 2015/02/28 16:51:23